当寺は
その後文治年間(1185~89)景正の末裔である梶原景時が再建し、福泉寺といって当時は真言宗でした。
永禄年中(1558~69)住職であった長順法師が感誉存貞上人より浄土の教えを聴き、その素晴らしさに感銘し、以来浄土宗に改宗し、一心院専念寺と呼ばれていました。
当寺は
その後文治年間(1185~89)景正の末裔である梶原景時が再建し、福泉寺といって当時は真言宗でした。
永禄年中(1558~69)住職であった長順法師が感誉存貞上人より浄土の教えを聴き、その素晴らしさに感銘し、以来浄土宗に改宗し、一心院専念寺と呼ばれていました。
第八世
ご本尊様は、鎌倉権五郎景正の守本尊である薬師如来です。この仏様について次のような話が伝えられています。
後三年の約(1086~88)の時、源(八幡太郎)義家を総大将とする奥州鎮圧部隊の一将として参加した景正は、合戦の折、敵将鳥海弥三郎に弓矢で左目を射られたが、その苦痛をものともせず、ついには相手を打ち取ってしまう。合戦の後、矢疵(やきず)の痛みが耐えられない程であったが、景正が心を込めて故郷の薬師如来に祈願したところ、次第に痛みも和らぎ、程なく癒(いえ)えた。また、この時三浦平太郎為次が、矢を抜こうと景正の顔に足をかけたところ、景正は「たとえ味方であろうと、武士の顔に足をかけるとはもってのほか、武士の恥」とばかりに怒り、刀を抜いて為次に斬りかかった。
このような話から、目の病気に大変霊験あらたかな「深谷目薬師」として近在に有名になりました。
「薬師瑠璃光如来本願経」に説かれる東方浄瑠璃世界の教主です。
薬師如来は、衆生の人格を高め、衣食住を豊かにし、病苦・災難を除く、という十二の大願を立て、人々の病苦などからの救済を常に東方浄瑠璃世界において念じています。病苦といっても、体の疾患による病気もあれば、心の病気もあります。薬師如来が左手に薬瓶・宝珠を持っているのは、この中に人びとの病を治す薬が入っているからです。右手は、上に上げて五本の指を伸ばし、外に向けて施無毘印を結んでいます。施無毘印とは、何ものをも畏れることのない力をあたえるということで、徳をほどこし、畏れを取り去りたいと常に思っているのが、薬師如来です。薬師如来は心の病・体の病を治す偉大な力を備えていることから医王とも呼ばれています。
専念寺の本尊薬師如来は、鎌倉権五郎景正の守本尊で、目の病気に大変霊験あらたかな仏様として「深谷目薬師」の名で呼ばれ、近在に有名です。
普段は秘仏として宮殿の中に納められており、十二年に一度だけ開扉されてお参りすることができます。「お開帳」の名で親しまれている開扉法要は、十二年毎戌年の秋に開催されます。お開帳は、娯楽の少ない時代には大変楽しみな催しで、田舎芝居の小屋が長い時には一週間もかかったことがあるそうです。
この催しは深谷だけでなく、近在の人達にとっても大きな楽しみで、現在でも「深谷のお開帳」或いは「深谷のお十夜」という言葉を聞くと年配の人達は思わず顔をほころばせます。
阿弥陀如来は、西方極楽浄土の教主で、浄土宗徒にとって信仰の対象となっている仏さまです。阿弥陀如来は「今、現にましまして説法したもう」仏として、古くから信仰されています。
薬師如来は脇侍として日光菩薩、それに十二神将を従えています。残念ながら当山には日光・月光菩薩はありませんが、十二神将は揃っています。
また中央に客仏ながら、不動明王が鎮座しています。
名称 | 読み | 本地仏 | 十二支 |
---|---|---|---|
宮毘羅 | くびら | 弥勒菩薩 | 子神 |
迷企羅 | めいきら | 勢至菩薩 | 丑神 |
伐折羅 | ばさら | 阿弥陀如来 | 寅神 |
安低羅 | あんてら | 観音菩薩 | 卯神 |
頞頥羅 | あじら | 如意輪観音 | 辰神 |
瓓底羅 | さんてら | 虚空菩薩 | 巳神 |
因陀羅 | いんだら | 地蔵菩薩 | 午神 |
波夷羅 | はいら | 文殊菩薩 | 未神 |
摩虎羅 | まこら | 大威徳菩薩 | 申神 |
真達羅 | しんだら | 普賢菩薩 | 酉神 |
招杜羅 | しゃとら | 大日如来 | 戌神 |
毘羯羅 | びから | 釈迦如来 | 亥神 |
いつも南無阿弥陀仏を口に出してとなえれば、
必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、
お浄土に生まれることができる法然上人の教え
浄土宗は、法然上人(法然房源空)を宗祖と仰いでいる宗派です。
法然上人は、今から約860年前(1133)に現在の岡山県(当時の美作の国)にお誕生になりました。幼少にして父を失い、それを機会に父の教えのままに出家して京都(滋賀)の比叡山にのぼって勉学し、当時の仏教・学問のすべてを修した後、「ただひたすらに仏に帰依すれば必ず救われる」すなわち南無阿弥陀仏を口に出してとなえれば、必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、お浄土に生まれることができる、という他力のおしえを広めました。
当時の旧仏教の中でこの新しい教えを打ち出されただけに、いろいろな苦難が続きます。貴族だけの仏教を大衆のために、というこの教えは、日本中に広まり、皇室・貴族をはじめとして、広く一般民衆にいたるまで、この導きによって救われました。
法然上人は、どこにいても、何をしていても南無阿弥陀仏をとなえよ、と勧めています。南無阿弥陀仏と口にとなえて仕事をしなさい、その仏の御名のなかに生活しなさい、と教えられています。
こうした教えが広まるにつれて、それが新しい宗教であったため、色々なことで迫害をうけます。その様なときでも、法然上人は「この教えだけは絶対やめない」という固い決意をあらわしています。また、亡くなるときにも、「わたしが死んでも墓を建てなくてもよろしい、南無阿弥陀仏をとなえるところには必ずわたしがいる」といって、その強い信念を示されました。
亡くなってから800年を過ぎましたが、その遺言とは反対にお寺がたくさんできたということは、如何に法然上人の教えがわれわれ民衆と共にあって、その教えを慕わずにおられなかったか、という心のあらわれです。
南無阿弥陀仏という仏の御名は、すぐ口に出してとなえられます。できるだけたくさん口に出してとなえるほど、私たちは仏様の願いに近づくことになるのです。すると、わたしたちはすなおな心になり、今日の生活に必ず光がさし込んできて、活き活きとした、そして、平和なくらしができるようになります。
法然上人の教えは、今生きることによろこびを感じることであります。